望月圭子(清大語言所外籍生)
10/11/20 22:17
湯廷池先生の思い出
1. 像親戚中叔父一樣存在的湯老師
湯老師對我而言,就像親戚中某位叔父輩一般的人物,因為湯老師是我已故父親望月八十吉的摯友。我父親是二戰時出生在大連的日本人,同時也是一位研究漢語語言學的學者。父親與湯老師的首次相遇是在1984年於台北舉行的「第一屆世界華文教育研討會」。當時先父與湯老師被安排在同一個房間住宿,閒聊時湯老師提及「日治時代曾經遭受日本人不愉快的霸凌」的經驗談,聽完之後,父親做為一個日本人,非常誠摯地向湯老師道歉。也就是這個道歉開啟了二人之間的友誼之門。
我與湯老師的相識則是那之後的兩年後。1986年的8月就讀於東京外國語大學研究所漢語語學專業的我,接受了當時中華民國青年救國團的招待,與來自日本各大學的學生代表一起展開為期兩周的台灣環島參訪之旅。期間湯老師與其千金志真老師一起到當時我們寄宿的位於台灣大學校內的僑光堂來看我。當時意氣風發、談笑風生的湯老師給我的第一印象,至今仍栩栩如生地印在我的腦海。還記得湯老師還招待我到台灣師範大學旁一家名叫「大學」的日本料理店吃飯,為了找尋當時的記憶,之後我還曾回去和平東路找看看是否還有一家日本料理店叫「大學」。
那次的台灣參訪,從某種意義來看,也決定了我未來人生的方向。畢業之後,我任教於母校東京外國語大學,並與來自台灣的留學生相識並結婚。還記得當自己打國際電話向湯老師報告自己的婚事時,湯老師與師母許淑慎老師的第一個反應是身為在台灣的長輩,按照台灣的習俗,必須在新竹為我們辦一場婚宴,就像自己的女兒要出嫁一樣。
2. 做為我博士班指導教授的湯老師
婚後,1994年生了長男,1995年又從任教的大學得到了一次海外進修的機會。原本打算到美國進修,但是湯老師認為帶著嬰兒遠赴美國求學非現實之計,於是毅然決然接受湯老師的建議就近到台灣清華大學攻讀語言學博士學位。也感謝台灣的公婆願意幫忙照料我兒,讓我得以安心學業。為了進清華大學的博士班,還認真地準備了博士班的入學考試,沒想到考試當天監考的教授卻說「留學生可以不用參加入學的筆試」。聽了之後,我雖然大吃一驚,還是繼續把試考完。現在回想起來,覺得是湯老師有意要考驗我,讓我成長,才故意不告訴我其實留學生是可以免筆試入學的。
進入清華大學博士班就讀之後,作為博士論文的題目,湯老師建言「對於漢語複合動詞的研究,做的人少且具有未來性」,也因此決定了我未來研究的方向。不僅我個人的博士論文,返回母校任教以後我所指導的學生也都以此為研究的出發點,專研漢語動補結構與日語複合動詞的對比研究。至今仍非常感謝湯老師在學問上對我個人的啟發。
因為是在職進修的博士班學生,所以一年只能分數次前往清華大學修課。每次上完課之後,湯老師就會叫我到老師位於新竹的家裡共進午餐,從附近便當店買來滷雞腿便當招待我。直到今天仍然非常懷念那種便當特有的溫馨滋味。另外,我們還會邊吃便當邊看NHK晨間連續劇的重播。湯老師是一個標準的電視劇迷,尤其熱衷於在NHK每天早晨播放的連續劇以及周末播放的大型歷史劇。每當與湯老師一起追劇時都會讓我有種錯覺,彷彿自己是在台灣的親戚家與親人一起度過一個溫馨且幸福的午後。我永遠都忘不了這段與湯老師以及師母共度的幸福時光。
花了9年的時間,終於寫完了博士論文,在2004年的7月31日我參加了博士論文的口試。在長達6個小時的馬拉松式的口試期間,湯老師給的評語雖然嚴厲多於讚美,諸如「博士論文不應該不接受指導,自己一個人埋頭苦寫」,但是又會加上一句「即使如此,寫得還可以」,讓不安的我頓時安心不少。
3. 湯老師與東京外國語大學的淵源
1999年正逢東京外國語大學創立一百周年紀念,當時的校長,同時也是故總統李登輝的日本摯友中嶋嶺雄先生邀請湯老師蒞臨東外大演講,演講之餘,還請湯老師與來自台灣的東外大留學生進行交流並指導。日本之行,師母也同來。其間中嶋校長還在自己家裡舉行歡迎會,湯老師夫婦與我共同赴宴,二人相見恨晚,相談甚歡的情景彷如昨日,歷歷在目。
2007年東京外國語大學舉辦國際研討會,再度邀請唐老師與會,湯老師提出想與師母一起講演的要求,也因此我們有幸能拜聽湯老師夫婦的共同演講,同時也能深深感受到老師與師母之間夫唱婦隨的動人情誼。
研討會結束後,我與湯老師夫婦同遊鎌倉,老師和師母還在我家住了一個晚上。也是在這一年,先父辭世,湯老師在客人的留言簿裡留下了以下的日文感言:
「何年振りかの訪日、山河変わらねど、親友既に無し。鎌倉の大仏の前に掌を合わせ、美男でもありし友を偲ぶ。願わくば友浄土にて安らかであれ。湯廷池 許淑慎
2007.12.5」
「相隔數年的再度訪日,山河雖然依舊,好友卻在何方。在鎌倉大佛之前兩掌合十,悼念我英俊的故友,願他在彼岸淨土一切安詳! 湯廷池 許淑慎 2007.12.5」
停留我家一晚時,還記得師母曾說自己平時很容易失眠,但是這一晚卻睡得很好。我回答說會不會是因為枕頭的關係。師母笑說那能不能送我這個枕頭,於是真的帶著兩個枕頭回台,孰知這竟是我與師母最後一次的見面了。
4. 遷居和平東路之後的湯老師
2008年師母仙逝之後,湯老師曾向我說如果有師母之前任何的留影照片,就將照片寄給他。當時和小兒一同前往台北和平東路的老師家拜訪,除了鼓勵小兒,老師還送了我一本『語言學、語言分析與語言教學』,翻開首頁老師的親筆留言映入眼簾:
圭子ちゃんへ
希望這一本書能夠成爲
我們夫妻倆相愛與合作
並人生的旅途上所留下的脚印。
湯廷池 2010年9月11日
湯老師在中英日三種語言的語言研究與應用教學的領域裡做出了巨大的貢獻。從與中文對照的視點來分析日語,並留下了許多相關著作,這些著作對後進的我們而言是彌足珍貴的。東京外國語大學的圖書館裡現在仍收藏者湯老師13冊的相關著作。今後我們會繼續從台灣搜尋湯老師的相關著作,擴大我們圖書館的所藏。無論是學問還是為人,希望湯老師的風範也能在日本被傳承下去。湯老師、湯師母,感謝您二人開啟我的學問之門並引領我人生的道路,在此獻上我無限的感謝與追思!
望月圭子 於2020年11月16日深夜
1.親戚の叔父様としての湯先生
湯先生は、私たちにとっては、親戚の叔父様のような存在でした。湯先生は、私たちの亡き父望月八十吉の親友だったからです。
父は、大連生まれの日本人で、中国語学の研究者でした。父と湯先生の出会いは、父が1984年に開催された「第一屆世界華文教育研討會」に参加したことがきっかけでした。父は、この研討會中、ホテルで湯先生とで同室となり、湯先生から、「私は日本時代、日本人から非常にいじめられた」という話を聞いて、「申し訳ありませんでした」と謝ったそうです。父のこの謝罪をきっかけに、湯先生と父は親しくなったときいています。
私が湯先生に初めてお目にかかったのは、その二年後、1986年8月のことです。私は、東京外国語大学で中国語学専攻の大学院生でした。中華民国救国団が日本の各大学の大学生を台湾に招聘し、2週間台湾の大学生と一緒に台湾全土を旅する、という研修団に参加したのです。湯先生は、お嬢様の志真先生と一緒に台湾大学内の宿舎僑光堂まで会いに来てくださいました。湯先生は、颯爽としていて、とてもハンサムで素敵でした。そして、台湾師範大学そばの「大学」という日本料理屋に連れて行ってくださいました。その時の思い出は忘れられません。今でも、和平東路にまだ、「大学」と日本料理屋がないか、と探したりします。
この訪華研修は、ある意味で私の人生を方向づけたと思います。その後、私は母校の東京外国語大学の教員となり、自分の学生だった台湾からの留学生と結婚することになりました。私は、湯先生に国際電話をかけて、「台湾人と結婚することにした」と報告したことを今でも鮮明に覚えています。湯先生と叔母様·許淑慎先生は、台湾の風習にのっとり、新竹で私たちのために、婚約式を開いてくださいました。
2. 清華大学博士課程時代の湯先生
1994年に長男を出産後、1995年, 私は大学から海外留学の機会を与えられました。私は、湯先生に憧れて、アメリカの大学で博士号を取得したいと考えていましたが、湯先生は、赤ん坊がいる身でアメリカ留学は現実的ではないから、台湾清華大学で博士号を取りなさい、とアドバイスをしてくださいました。幸いに夫の台湾の両親も、赤ん坊の息子を預かるから、安心して研究をしなさい、と言ってくれました。
私は、清華大学博士課程の筆記試験勉強に励み、入試の当日、試験監督の教授から、「おや、君は留学生か?留学生は受験しなくてもよいのだよ」と言われ、驚きましたが、そのまま受験を続けました。今から考えると、湯先生は、私に試練を与えて、成長させるために、わざと留学生は筆記試験が不要であることを私に伝えなかったのだろうと思います。
清華大学博士課程入学後、湯先生は、博士論文のテーマとして、「複合動詞の研究は興味深いのに、研究されていないから、将来性がある」とおっしゃって、私の博士論文、私の学生たちは、中国語の結果補語と日本語の複合動詞の対照研究をすることになりました。湯先生が、私たちの学問の方向性を示して下さったのです。
私は、在職博士生として、年に数度しか清華大学へ行くことができませんでしたが、湯先生は、いつも授業の後、新竹のご自宅まで招いてくださり、お昼をご一緒させていただきました。ご自宅そばのお弁当屋さんで、きまって魯鷄腿便當を買ってくださり、ご馳走になりました。
湯先生のご自宅の食卓で、NHKの朝の連続ドラマ小説の再放送をご一緒に見ました。湯先生は、欠かさずNHKの朝の連続ドラマ小説と大河ドラマをご覧になっていました。私は、台湾の親戚のお宅にいるような、あたたかく、幸せな時間を過ごさせていただきました。今でも、湯先生、伯母様と一緒に過ごした昼下がりの時間を忘れることができません。
9年かかって、やっと博士論文を完成させ、私が博士論文の口頭試問を受けたのは、2004年7月31日でした。口頭試問は、6時間続き、湯先生が様々なご意見を述べられました。「博士論文は、指導を受けずに勝手に自分一人で書いてはいけない」と叱られましたが、そのあと、ぽつりと「その割には良く書けている」とおっしゃって、私もほっとしました。
3. 湯先生と東京外国語大学との関わり
1999年、東京外国語大学創立100周年記念の際、当時の学長で台湾李登輝総統の親しい友人であった中嶋嶺雄先生が、「台湾から湯先生もご招聘して、講演会をお願いしよう」とおっしゃり、湯先生は東京外国語大学へ来てくださいました。その際、湯先生は、東京外国語大学の台湾からの大学院生たちの指導もしてくださいました。湯先生は、伯母様も同伴され、中嶋先生のご自宅での歓迎会では、中嶋学長と意気投合されたことを思い出します。
2007年、東京外国語大学は、台湾における日本学国際シンポジウムへ、湯先生をご招聘しました。その際、湯先生は、「伯母様と一緒に講演をしたい」というご希望で、私たちは、湯先生と叔母様との共同講演を拝聴することができ、深いご夫婦愛を感じました。
シンポジウム終了後、私たちは、ご一緒に鎌倉に遊びにまいりました。そして、私達の家にお泊りくださいました。その年は、父が亡くなった年でもありました。湯先生は、ゲストブックに次のように記してくださいました。
「何年振りかの訪日、山河変わらねど、親友既に無し。鎌倉の大仏の前に掌を合わ
せ、美男でもありし友を偲ぶ。願わくば友浄土にて安らかであれ。湯廷池 許淑慎
2007.12.5」
拙宅にお泊りいただいた際、伯母様は、「私は普段不眠症だけれど、この家ではよく眠れるわ」とおっしゃりました。私が「もしかしたら、枕が伯母様にぴったりなのかもしれませんね」と申し上げると、「あら、ではこの枕を頂いていこうかしら」と枕を二つお持ち帰りになりました。これが、伯母様とお目にかかった最後でした。
4. 和平東路に移られてから
伯母様が2008年にご逝去された後、湯先生から、伯母様が映っている写真はどんなものでもよいから送ってほしい、というご要望がありました。ある時、湯先生の和平東路のご自宅に息子と一緒に訪問した際、息子を激励してくださり、私に一冊の本、《語言學,語言分析與語言教學》を手渡されました。最初のページには、以下のように記してくださいました。
湯先生は、英語、中国語、日本語の研究と教育への応用という分野で、大きな貢献をされました。日本語の研究を、中国語との比較の視点から論じられ、多くの著作を残してくださったことは、大変ありがたいことです。東京外国語大学図書館にも、湯先生の著作は13冊所蔵されています。これから、まだ所蔵されていないご著書を台湾から取り寄せ、私達の図書館に所蔵したいと思います。こうして、湯先生の学問・情熱が、日本においても、次の世代へと引き継がれていくことは、とてもありがたいことだと思います。
湯先生、伯母様、私達の人生、学問への道を導いてくださり、本当にありがとうございました。どうぞ、お二人で安らかに… 望月圭子 2020年11月16日深夜
1. 像親戚中叔父一樣存在的湯老師
湯老師對我而言,就像親戚中某位叔父輩一般的人物,因為湯老師是我已故父親望月八十吉的摯友。我父親是二戰時出生在大連的日本人,同時也是一位研究漢語語言學的學者。父親與湯老師的首次相遇是在1984年於台北舉行的「第一屆世界華文教育研討會」。當時先父與湯老師被安排在同一個房間住宿,閒聊時湯老師提及「日治時代曾經遭受日本人不愉快的霸凌」的經驗談,聽完之後,父親做為一個日本人,非常誠摯地向湯老師道歉。也就是這個道歉開啟了二人之間的友誼之門。
我與湯老師的相識則是那之後的兩年後。1986年的8月就讀於東京外國語大學研究所漢語語學專業的我,接受了當時中華民國青年救國團的招待,與來自日本各大學的學生代表一起展開為期兩周的台灣環島參訪之旅。期間湯老師與其千金志真老師一起到當時我們寄宿的位於台灣大學校內的僑光堂來看我。當時意氣風發、談笑風生的湯老師給我的第一印象,至今仍栩栩如生地印在我的腦海。還記得湯老師還招待我到台灣師範大學旁一家名叫「大學」的日本料理店吃飯,為了找尋當時的記憶,之後我還曾回去和平東路找看看是否還有一家日本料理店叫「大學」。
那次的台灣參訪,從某種意義來看,也決定了我未來人生的方向。畢業之後,我任教於母校東京外國語大學,並與來自台灣的留學生相識並結婚。還記得當自己打國際電話向湯老師報告自己的婚事時,湯老師與師母許淑慎老師的第一個反應是身為在台灣的長輩,按照台灣的習俗,必須在新竹為我們辦一場婚宴,就像自己的女兒要出嫁一樣。
2. 做為我博士班指導教授的湯老師
婚後,1994年生了長男,1995年又從任教的大學得到了一次海外進修的機會。原本打算到美國進修,但是湯老師認為帶著嬰兒遠赴美國求學非現實之計,於是毅然決然接受湯老師的建議就近到台灣清華大學攻讀語言學博士學位。也感謝台灣的公婆願意幫忙照料我兒,讓我得以安心學業。為了進清華大學的博士班,還認真地準備了博士班的入學考試,沒想到考試當天監考的教授卻說「留學生可以不用參加入學的筆試」。聽了之後,我雖然大吃一驚,還是繼續把試考完。現在回想起來,覺得是湯老師有意要考驗我,讓我成長,才故意不告訴我其實留學生是可以免筆試入學的。
進入清華大學博士班就讀之後,作為博士論文的題目,湯老師建言「對於漢語複合動詞的研究,做的人少且具有未來性」,也因此決定了我未來研究的方向。不僅我個人的博士論文,返回母校任教以後我所指導的學生也都以此為研究的出發點,專研漢語動補結構與日語複合動詞的對比研究。至今仍非常感謝湯老師在學問上對我個人的啟發。
因為是在職進修的博士班學生,所以一年只能分數次前往清華大學修課。每次上完課之後,湯老師就會叫我到老師位於新竹的家裡共進午餐,從附近便當店買來滷雞腿便當招待我。直到今天仍然非常懷念那種便當特有的溫馨滋味。另外,我們還會邊吃便當邊看NHK晨間連續劇的重播。湯老師是一個標準的電視劇迷,尤其熱衷於在NHK每天早晨播放的連續劇以及周末播放的大型歷史劇。每當與湯老師一起追劇時都會讓我有種錯覺,彷彿自己是在台灣的親戚家與親人一起度過一個溫馨且幸福的午後。我永遠都忘不了這段與湯老師以及師母共度的幸福時光。
花了9年的時間,終於寫完了博士論文,在2004年的7月31日我參加了博士論文的口試。在長達6個小時的馬拉松式的口試期間,湯老師給的評語雖然嚴厲多於讚美,諸如「博士論文不應該不接受指導,自己一個人埋頭苦寫」,但是又會加上一句「即使如此,寫得還可以」,讓不安的我頓時安心不少。
3. 湯老師與東京外國語大學的淵源
1999年正逢東京外國語大學創立一百周年紀念,當時的校長,同時也是故總統李登輝的日本摯友中嶋嶺雄先生邀請湯老師蒞臨東外大演講,演講之餘,還請湯老師與來自台灣的東外大留學生進行交流並指導。日本之行,師母也同來。其間中嶋校長還在自己家裡舉行歡迎會,湯老師夫婦與我共同赴宴,二人相見恨晚,相談甚歡的情景彷如昨日,歷歷在目。
2007年東京外國語大學舉辦國際研討會,再度邀請唐老師與會,湯老師提出想與師母一起講演的要求,也因此我們有幸能拜聽湯老師夫婦的共同演講,同時也能深深感受到老師與師母之間夫唱婦隨的動人情誼。
研討會結束後,我與湯老師夫婦同遊鎌倉,老師和師母還在我家住了一個晚上。也是在這一年,先父辭世,湯老師在客人的留言簿裡留下了以下的日文感言:
「何年振りかの訪日、山河変わらねど、親友既に無し。鎌倉の大仏の前に掌を合わせ、美男でもありし友を偲ぶ。願わくば友浄土にて安らかであれ。湯廷池 許淑慎
2007.12.5」
「相隔數年的再度訪日,山河雖然依舊,好友卻在何方。在鎌倉大佛之前兩掌合十,悼念我英俊的故友,願他在彼岸淨土一切安詳! 湯廷池 許淑慎 2007.12.5」
停留我家一晚時,還記得師母曾說自己平時很容易失眠,但是這一晚卻睡得很好。我回答說會不會是因為枕頭的關係。師母笑說那能不能送我這個枕頭,於是真的帶著兩個枕頭回台,孰知這竟是我與師母最後一次的見面了。
4. 遷居和平東路之後的湯老師
2008年師母仙逝之後,湯老師曾向我說如果有師母之前任何的留影照片,就將照片寄給他。當時和小兒一同前往台北和平東路的老師家拜訪,除了鼓勵小兒,老師還送了我一本『語言學、語言分析與語言教學』,翻開首頁老師的親筆留言映入眼簾:
圭子ちゃんへ
希望這一本書能夠成爲
我們夫妻倆相愛與合作
並人生的旅途上所留下的脚印。
湯廷池 2010年9月11日
湯老師在中英日三種語言的語言研究與應用教學的領域裡做出了巨大的貢獻。從與中文對照的視點來分析日語,並留下了許多相關著作,這些著作對後進的我們而言是彌足珍貴的。東京外國語大學的圖書館裡現在仍收藏者湯老師13冊的相關著作。今後我們會繼續從台灣搜尋湯老師的相關著作,擴大我們圖書館的所藏。無論是學問還是為人,希望湯老師的風範也能在日本被傳承下去。湯老師、湯師母,感謝您二人開啟我的學問之門並引領我人生的道路,在此獻上我無限的感謝與追思!
望月圭子 於2020年11月16日深夜
1.親戚の叔父様としての湯先生
湯先生は、私たちにとっては、親戚の叔父様のような存在でした。湯先生は、私たちの亡き父望月八十吉の親友だったからです。
父は、大連生まれの日本人で、中国語学の研究者でした。父と湯先生の出会いは、父が1984年に開催された「第一屆世界華文教育研討會」に参加したことがきっかけでした。父は、この研討會中、ホテルで湯先生とで同室となり、湯先生から、「私は日本時代、日本人から非常にいじめられた」という話を聞いて、「申し訳ありませんでした」と謝ったそうです。父のこの謝罪をきっかけに、湯先生と父は親しくなったときいています。
私が湯先生に初めてお目にかかったのは、その二年後、1986年8月のことです。私は、東京外国語大学で中国語学専攻の大学院生でした。中華民国救国団が日本の各大学の大学生を台湾に招聘し、2週間台湾の大学生と一緒に台湾全土を旅する、という研修団に参加したのです。湯先生は、お嬢様の志真先生と一緒に台湾大学内の宿舎僑光堂まで会いに来てくださいました。湯先生は、颯爽としていて、とてもハンサムで素敵でした。そして、台湾師範大学そばの「大学」という日本料理屋に連れて行ってくださいました。その時の思い出は忘れられません。今でも、和平東路にまだ、「大学」と日本料理屋がないか、と探したりします。
この訪華研修は、ある意味で私の人生を方向づけたと思います。その後、私は母校の東京外国語大学の教員となり、自分の学生だった台湾からの留学生と結婚することになりました。私は、湯先生に国際電話をかけて、「台湾人と結婚することにした」と報告したことを今でも鮮明に覚えています。湯先生と叔母様·許淑慎先生は、台湾の風習にのっとり、新竹で私たちのために、婚約式を開いてくださいました。
2. 清華大学博士課程時代の湯先生
1994年に長男を出産後、1995年, 私は大学から海外留学の機会を与えられました。私は、湯先生に憧れて、アメリカの大学で博士号を取得したいと考えていましたが、湯先生は、赤ん坊がいる身でアメリカ留学は現実的ではないから、台湾清華大学で博士号を取りなさい、とアドバイスをしてくださいました。幸いに夫の台湾の両親も、赤ん坊の息子を預かるから、安心して研究をしなさい、と言ってくれました。
私は、清華大学博士課程の筆記試験勉強に励み、入試の当日、試験監督の教授から、「おや、君は留学生か?留学生は受験しなくてもよいのだよ」と言われ、驚きましたが、そのまま受験を続けました。今から考えると、湯先生は、私に試練を与えて、成長させるために、わざと留学生は筆記試験が不要であることを私に伝えなかったのだろうと思います。
清華大学博士課程入学後、湯先生は、博士論文のテーマとして、「複合動詞の研究は興味深いのに、研究されていないから、将来性がある」とおっしゃって、私の博士論文、私の学生たちは、中国語の結果補語と日本語の複合動詞の対照研究をすることになりました。湯先生が、私たちの学問の方向性を示して下さったのです。
私は、在職博士生として、年に数度しか清華大学へ行くことができませんでしたが、湯先生は、いつも授業の後、新竹のご自宅まで招いてくださり、お昼をご一緒させていただきました。ご自宅そばのお弁当屋さんで、きまって魯鷄腿便當を買ってくださり、ご馳走になりました。
湯先生のご自宅の食卓で、NHKの朝の連続ドラマ小説の再放送をご一緒に見ました。湯先生は、欠かさずNHKの朝の連続ドラマ小説と大河ドラマをご覧になっていました。私は、台湾の親戚のお宅にいるような、あたたかく、幸せな時間を過ごさせていただきました。今でも、湯先生、伯母様と一緒に過ごした昼下がりの時間を忘れることができません。
9年かかって、やっと博士論文を完成させ、私が博士論文の口頭試問を受けたのは、2004年7月31日でした。口頭試問は、6時間続き、湯先生が様々なご意見を述べられました。「博士論文は、指導を受けずに勝手に自分一人で書いてはいけない」と叱られましたが、そのあと、ぽつりと「その割には良く書けている」とおっしゃって、私もほっとしました。
3. 湯先生と東京外国語大学との関わり
1999年、東京外国語大学創立100周年記念の際、当時の学長で台湾李登輝総統の親しい友人であった中嶋嶺雄先生が、「台湾から湯先生もご招聘して、講演会をお願いしよう」とおっしゃり、湯先生は東京外国語大学へ来てくださいました。その際、湯先生は、東京外国語大学の台湾からの大学院生たちの指導もしてくださいました。湯先生は、伯母様も同伴され、中嶋先生のご自宅での歓迎会では、中嶋学長と意気投合されたことを思い出します。
2007年、東京外国語大学は、台湾における日本学国際シンポジウムへ、湯先生をご招聘しました。その際、湯先生は、「伯母様と一緒に講演をしたい」というご希望で、私たちは、湯先生と叔母様との共同講演を拝聴することができ、深いご夫婦愛を感じました。
シンポジウム終了後、私たちは、ご一緒に鎌倉に遊びにまいりました。そして、私達の家にお泊りくださいました。その年は、父が亡くなった年でもありました。湯先生は、ゲストブックに次のように記してくださいました。
「何年振りかの訪日、山河変わらねど、親友既に無し。鎌倉の大仏の前に掌を合わ
せ、美男でもありし友を偲ぶ。願わくば友浄土にて安らかであれ。湯廷池 許淑慎
2007.12.5」
拙宅にお泊りいただいた際、伯母様は、「私は普段不眠症だけれど、この家ではよく眠れるわ」とおっしゃりました。私が「もしかしたら、枕が伯母様にぴったりなのかもしれませんね」と申し上げると、「あら、ではこの枕を頂いていこうかしら」と枕を二つお持ち帰りになりました。これが、伯母様とお目にかかった最後でした。
4. 和平東路に移られてから
伯母様が2008年にご逝去された後、湯先生から、伯母様が映っている写真はどんなものでもよいから送ってほしい、というご要望がありました。ある時、湯先生の和平東路のご自宅に息子と一緒に訪問した際、息子を激励してくださり、私に一冊の本、《語言學,語言分析與語言教學》を手渡されました。最初のページには、以下のように記してくださいました。
湯先生は、英語、中国語、日本語の研究と教育への応用という分野で、大きな貢献をされました。日本語の研究を、中国語との比較の視点から論じられ、多くの著作を残してくださったことは、大変ありがたいことです。東京外国語大学図書館にも、湯先生の著作は13冊所蔵されています。これから、まだ所蔵されていないご著書を台湾から取り寄せ、私達の図書館に所蔵したいと思います。こうして、湯先生の学問・情熱が、日本においても、次の世代へと引き継がれていくことは、とてもありがたいことだと思います。
湯先生、伯母様、私達の人生、学問への道を導いてくださり、本当にありがとうございました。どうぞ、お二人で安らかに… 望月圭子 2020年11月16日深夜